無題
あと10分足らずで4月になる。今年も4分の1が終わってしまった。
2011年03月の記事は以下のとおりです。
3月11日の地震ですっかり忘れていたが、そういえば22日に「しくみ2」は三周年を迎えた。特別めでたい事ではないのだが、よくもまぁ続いたもんだ。「しくみ」が2005年10月2日から書いているし、2003年4月から書き始めた「日々のしくみ」時代から数えると、約8年。8年間、基本的に俺は部屋に引きこもっている。それでもなんかかんか起きているのだなぁと感じる。
途中、「しくみ2.55」(MovableType)や「Freo」に浮気しながらも、結局戻ってくるのはここになる。『Web Diary Professional』というスクリプトを使わせていただいているのだが、やっぱりこれが一番いい。『Web Liberty』さんは、「freo」の開発に熱心なようで、このスクリプトはもう作らないのだろうが、俺はこれを使っていく。
三度に渡る医師の交代、精神科医大量退職のための転院。四人目の主治医は、多分俺より若くて、ちょっととげがある。心を開けるかどうか微妙なところだ。どうなることやら。
今後も気が向いたときにでも来ていただけるとありがたいと思う。
これまでの皆様のサポートに感謝している。
12時起床。ゾロフト50mg錠2錠ルボックス25mg錠+50mg錠各3錠、リスパダール1mg錠2錠、レボトミン5mg錠6錠、デパス1mg錠3錠を服用。
頑張れ頑張れ言ってもらってるけど、頑張れない俺はやっぱり生きる価値がないんだと思う。自殺するつもりはないけれど、この命を今回の大震災で犠牲になられた方々と交換したい。
今日は妙に地震が多い。22時あたりにもあったし、24時前にもあった。もう気が変になりそうだ。
スピッツのボーカル、草野マサムネさんが急性ストレス障害になったという。毎日起きる地震、絶え間なく流される被災地の悲惨な状況、原発の報道…こういうものでストレスがかかってなるそうだが、ミュージシャンである彼は人一倍感受性が高かったのだろう。とてもよく理解できる。俺でさえかなり参っているのだから…。(翌0時40分)
水道の復旧が遅れている。なんでも、来月下旬に復旧とのこと、それも見込であって、実際に通るのはいつだかわからない。銚子大橋新橋の工事もこの地震で進捗状況はストップ。少なくとも再来月までは止まったままだろう。予定ではもう全面開通しているはずだった。多分、住金(住友金属)がやられたことで鉄鋼の生産ができないことが橋の部品の製造にも影を落としているのだろうか。うちは井戸(飲用には適さない)があるのでまだトイレの水が流せるからまだいい。ただ、飲用には適さないため、飲料水はご近所さんから頂いている状態だ。有難いことだ。
最近は腹を決めて、眠剤(睡眠薬)を飲むようになった。何とか熟睡できているような気がするが、また11日のような地震が来たらお陀仏だろう。3月11日…忘れたくても忘れられない日になった。あれから17日…とても長い17日だった。これが夢であってほしい、何度もそう思った。避難生活を続けて極限状態で過ごされている方々がたくさんいらっしゃる中、俺は4日で避難生活に精神的限界が訪れた。俺の生命力の弱さが露呈した形だ。俺はサバイバルバトルには勝ち残れないだろう。
鹿嶋の方へ行ってきた。屋根瓦の落ちた家、波打つ道路、地盤沈下した建物、道路、地割れした道路、周りが沈下したかそのもの自体が浮き上がったのか、にょっきりでたメーター、マンホール。倒壊した家はないようだが休業の店も多かった。ユニクロはガラスが割れ、WonderGooは人っ子一人いない。妙なところに転がるコンテナ、なぎ倒されたフェンス、ぐにゃりと曲がった貨物線の線路…奥野谷あたりがひどい。鹿島港も津波で周辺の家屋に水が載った。あぁ津波って、こんなに怖いものなのかと言葉を失った。カメラを持っていったが撮る気になれなかった。記憶だけで充分だ。記録になんか残したくない。そういうのは商売人に任せとけばいいのだ。
街は一見無事だけれど、よく見るとやっぱり震災の爪痕が残っている。とんでもない災害だったのだと、改めて思い知らされた。
俺は未だに怖くて、ジャージではなく服を着て寝ていて、枕元にはリュックが置いてある。ようやく昨夜から、それぞれの寝室で寝るようになった。それまでは、リビングに四人で寝ていたのだ。徐々に日常を取り戻しつつあるが、それが再び壊されることも充分あり得る。地震はとてつもなく怖い、津波はもっと怖い。もう嫌だ。けれど、避難所にいる被災者の皆さんのことを思えば随分俺は我儘な人間だと思う。
宮城県沖でまたやや強い余震があったそうです。ここはそんなに揺れませんでしたが、油断している時に限ってどーんとでっかいのが来る、と肝に銘じて窮屈ですがジーンズと、フリース着込んで備えています。大事なものは全てリュックに入れて手元に置いています。徐々に日常は回復してきて、テレビもACのコマーシャルの割合が減ってきました。ポポポポーンはもう飽きました仁科母娘も飽きました。「こだまでしょうか」も「思いやりは誰にでも見える」ももう飽きました。
それより、放射性物質がここにも多分降り注いでいます。東電が憎い!
雨になりました。また空から、黒い雨が降ってきました。放射性物質が含まれたこの雨で、こちらの土壌も汚染されてゆくのでしょうか。近所の千葉県旭市、多古町の野菜もダメだそうです。ただただ、原子力発電所と、原子力を推進してきた自民党、東京電力を恨むばかりです。今夜も寒いです。冷たい黒い雨です。
日常が帰ってきません。原発の放射能漏れは依然続き、半径30km以内の人間は避難するようにとのお達し。日本はどうなってしまうんでしょう。寒いです、風邪、インフルなどかからないよう、お気を付け下さい。
前にも書きましたが、眠剤(睡眠薬)が飲めずにいます。地震が来たとき飛び起きる事が出来ないかも知れないからです。結果、浅い眠りしか得られず、疲労が蓄積しています。緊急態勢を解除できる日はいったいいつのことになるのでしょう。
僕の好きな鉄道の話をすれば、東北新幹線は分断され、常磐線は土浦以北は復旧の目途が立たず、母の郷里の気仙沼線、大船渡線はもうどうしようもなくなりました。
ガソリン不足でドライブも行けませんし、誰か一人を置いてバラバラに行動をすることが怖くなっています。津波で家を失った被災者の方々、原発事故で安住の地を離れなければならなくなった被災者の方々には及びませんが、僕の日常も、破壊されました。頑張るもなにも、ただ気を張って生きているというのが現状です。寒くなってきました。そろそろ寝ます。M9.0の地震以降、パソコン関係の電源コードはいちいちコンセントから抜き差ししています。それでは、また。
本日17時46分現在、東北方面は強い余震がありましたが、こちらはまだありません。「まだ」というのは、このまま収まるわけがないと悲観しております。復興をしている最中に再び全てを壊すような気がします。超生命的存在(俗に「神」ということもある)は決して慈悲深いものではなく、人々の祈りに背く極悪非道なものだということを、今回あの大津波が人々が積み上げてきた大切なものを無慈悲に破壊してゆく光景を見て改めて感じました。「天罰が下った」とのたもうたどこぞやの知事がいましたが、天罰というにはあまりにむごいものです。それに乗じて悪事を働く更なる極悪人もいます。原発事故もそうです。初めからありとあらゆる全てを人間が思うがままにコントロールできない原子力というものを、最も危険な爆弾に使う力を何故強硬に推し進めたか、何故「原子力は安全」と言い切ることができたのか、その図々しさに怒りを通り越したものを感じます。この際、全原子力発電は運転中止して、分厚いコンクリートで遮蔽、廃炉にすべきものと僕は感じます。水力、風力、太陽光発電を組み合わせればいいのではないか、なにもただタービンを回すそれだけのために、あまりに危険過ぎる原子力を使う必要があるのか、僕は甚だ疑問に思います。もう嫌ですこんな生活。
余震はまだあります。もう嫌になっています。なんて弱虫な僕。サバイバルバトルに耐えられるか。自信がありません。
只今余震がありました。震度3。落ち着いて寝れません。余震、いつまで続くのでしょうね。僕も「あぁぁ余震がぁ」「あぁぁ放射性物質がぁ」と精神的に参ってしまって、ピリピリしています。睡眠薬は地震の時飛び起きられなくなる恐れがあるので飲みません。というか怖くて飲めません。日常の中では死にたい死にたい言っていた僕が、死を恐れ、命に固着しています。繰り返し流れる津波に飲み込まれる街のさまを見て、気分が悪くなります。
一人称が「俺」に、「ですます調」が「~だ][~である」に戻るのはいつのことになるやら。それだけ僕は、精神的に衰弱しております。
昼は割とバラバラに活動していることが増えましたが、夜はリビングに家族全員集まり、こたつで寝ています。こたつと言っても、ヒーター部分が壊れているので、下に敷いたホットカーペットの熱で暖まっている状態で、やっぱり寒いです。でも東北の雪降る被災地の現状に比べれば、なんでもない程度のものであって、寒いと不平を言うのも申し訳なく、はばかられます。それにしても、余震が長く続き、精神的に過敏になっていて極限状態です。でも避難所生活ではなく、プライバシーも保たれているので、まだ救われている感じです。
先ほども余震がありました。ビビッています。