21日日曜日 お出掛け他いろいろ
もーにん。シャワー浴びてきた。4時前にはもう薄っすら明るくなるね。明日は夏至。夏至の日は年によって違うが、これは「=INT(22.2747+(0.24162603*(Y-1900))-INT((Y-1900)/4))」(「」は含まない)をエクセルの計算式に入れてみる(Yには調べたい年の西暦を代入する。今年なら2015)。答えは22、よって今年の夏至の日は6月22日、明日、となるらしい。ただこれはNASAが使っている計算式より単純で精度が低く、西暦2100年がうるう年ではないことが考慮されていない。よってこの式は1904年~2099年までしか使えないそうだ。いろいろ、めんどくさいんだね、暦って。うるう秒も7月1日9時に設定されているらしいけど、なんかめんどくさい事情があるんだね。2015年7月1日8時59分60秒を聞くために117にかける人いるんだろうか。またあとで書く。(5時8分)
鹿嶋から遠回りして銚子まで行ってきた。神栖市街から潮来に行きローソンでフローズンラテを購入。次、行方市の井上藤井あたりを流す。道の駅のような施設(なめがたファーマーズヴィレッジ)ができるというので進捗状況を確認に行った。次、鹿嶋に行き、サッカースタジアムあたりを流す。宮中のセブンイレブンでおにぎりとサラダを購入、駐車場に停めた車の中で食べる。母が眼鏡を買うためにチェリオに寄る。しばしベンチに座って待つ。今日は一応父の日ということで、父と母は握りずしセットを、妹と俺は豚カツ卵とじ丼(カツ丼ともいう(笑))を購入。一体誰が一番喜んでいるのかわからない日だね(笑)。次、息栖大橋~小見川大橋を渡り、R356バイパスから笹川に抜ける。川向う
は鹿嶋・神栖にまたがる鹿島臨海工業地帯(鹿島臨海コンビナート)。いきなり草っ原に煙突が現れて天辺からは水蒸気が立ち上っている。うちの父はコンビナートが出来た時の、まぁオープニング・スタッフと言ってもいいだろう。あれから約47年、地元の経済を支えている。次、銚子の何町かわからないが「卵のお店こっこや」という店に寄る。名
前の通り卵屋さんである。店内には母だけが行ったので様子はわからないが、韓国海苔をおまけに付けてもらってきた。駐車場から見下ろす田んぼのあぜ道では雨の中、子供が遊んでいた。
次、昨日、新生のローソンで、会計間違いがあったということで、その店に行く。何やら交渉している様子、何かを待っているなぁと思ったらカカオ72%のスノージーを買ってきた。今日はあったようだ。ウイークデーは会社の人達が主に使っているんだろう、その人たちが今日は休みだからだろうか、今日は午後だったがちゃんとあった。自宅着15時。またあとで書く。(18時30分)
精神状態が悪い。車に乗っているとトランス状態になって何も考えないからいいんだが、一度自室に籠ってしまうと、どうもよくないんだよねぇ。俺、この部屋あんまり好きじゃないのかもしれない。
今の俺に欠けているもの、それは、インプット。読書である。はっきり言って今、俺はかなーり煮詰まっている。停滞している。話のネタも何もない。テレビの話題なんて、すぐどこかへ吹き飛んでしまう。脳にちゃんと定着するもの、というものが欲しい。
俺は物欲がある。金出して買うからにはそれなりに嵩張るものが欲しい。音楽ならネット配信ではなくてCDやレコード、本は電子書籍ではなくて紙の本。電子書籍は味気ない。インスタントコーヒーとか缶コーヒーのようだ。ソフトも否定はしない。だが、音楽ならその音楽というソフトの入った「CD」「レコード」というハード、書籍ならそれが収められている紙を綴じた「本」というハードも俺は欲しい。全部コンピュータープログラミング(広義の)になってしまうほど味気ないものはない。
コンピューターで完結してしまうんならライブなんて必要なくなる。音楽ならギターもドラムも打ち込み、ボーカルはボーカロイド、スクリーンに映し出されたボーカロイドの画像(そこに人格はない)に向かって声援や拍手を送る…ほど味気ないものはないと思う。
打ち込みは何故味気ないかというと、例えば打ち込みのドラムにむちゃくちゃなフレーズを叩かせたとしても驚かない。何故なら、人間じゃないから。「あーできるだろうねぇそんなことも」という感想しかないだろう。人間の、ある程度限界を知っている人間という生身は、同じ人間が、むちゃくちゃなフレーズを弾けたり叩けるから興奮するのであり、機械なんて…例えばコンピュータなんていう、一秒間に何千万回の演算ができるような代物がその演算能力に見合うだけの複雑でめちゃくちゃなフレーズを奏でたとしても感動はたかが知れている。
YMOなんかも一瞬、すごいかなぁと思ったけれど、結局、ライブは手弾きであったりドラムもシンセドラムはあるにせよ(コンピュータが出す信号音にガイドされながらではあるが)叩いているのは人間である。オリジナルのアルバムに入っているのは全部コンピューターの演奏であっても、なんだかんだ言ってライブ盤が出るものである。ライブをみんな聴きたいからである。ライブでしか味わえないものがあるからである。
生身の人間が奏でているメロディであったりリズムであったりがソフトであることを否定はしないが、脳がフル回転し、筋肉を動かし声帯を震わせて空気を振動させる生身の人間というハードが介在しなければ感動はたかが知れている。だから俺は、なんでも電子化、ソフト信仰というのはどうかと思うね。
無駄の排除、合理性の追求を突き詰めてしまうと全然つまらない味気ないものになってしまうと思う。合理性の追求なら、栄養を摂るのに全て点滴で済ますことを考えてみればいい。なんと味気ないことか。食事で味や香り、食感を楽しむように、本を読むのなら本というハードの重さ、紙やインクの匂い、紙の手触りなど五感を使って、その本の記憶という味わい深いソフトを手に入れることができる。だから、なにもハードを排除する必要はないんじゃないかと思うのだ。だから当分、俺はCDや紙の本を購入し続けるだろう。無駄こそ遊び。遊びこそ人生。(翌0時21分)